MeToo本家の「はじまり」と「歴史とヴィジョン」を訳してみました https://yonosuke.net/eguchi/archives/10054
こちらの記事を切っ掛けに、MeTooムーヴメントについて改めて追い直していて、 MeTooの創始者、ダラナ・バーク氏が、アーシア・アルジェント氏への告発に際し、SNSで発表した声明に行きつきました。これがとっても示唆的、かつパワフルな内容だったので、この機会に紹介したく思います*1
上記紹介記事も読んで。というか最初に読め。本家(あたりまえだけど英語)も。
人権運動を否定したいわけではない、でも、一部の熱狂する人たちへの違和感が払拭できない。 そういう人にこそ読んで欲しい、重要な提言だと感じました。
……苦言ってタイトルつけるのどうかとヤヤネヒちょっと迷ったんですけど、うまいこと人に読まれて欲しいのでちょっと飛ばした。失礼にはあたらないと思いたい。あと、社会運動はそうそう理念通りには進まないしジェンダー論や人文学問周りの用語全般が「よりわかりやす善悪の構造」に回収されやすい傾向がある中、提唱者が釘を刺せるっていうのはすごい。
ダラナ・バーク氏による、metooムーヴメントへの提言
まず、ツイートツリーを引用します。 アーシア・アルジェント氏に対する告発に応じてのものです。 長いので、ツリー表示で通して読まれるのが良いと思います。
I’ve said repeatedly that the #metooMVMT is for all of us, including these brave young men who are now coming forward. It will continue to be jarring when we hear the names of some of our faves connected to sexual violence unless we shift from talking about individuals [+]
— Tarana (@TaranaBurke) August 20, 2018
...and there is no model survivor.
— Tarana (@TaranaBurke) August 20, 2018
We are imperfectly human and we all have to be accountable for our individual behavior.
People will use these recent news stories to try and discredit this movement - don’t let that happen. This is what Movement is about. It’s not a spectator sport. It is people generated. We get to say “this is/isn’t what this movement is about!”
— Tarana (@TaranaBurke) August 20, 2018
以下、拙いながらヤヤネヒが和訳します。
私は繰り返し、#metooムーヴメントが、私たち全てのものであると主張してきました。そこには、今回、声を上げたような、勇敢な若い男性が含まれます。
性的暴力に関連して、いくつかの名前が耳に入るとき、私たちは、私たちのお気に入りの名前が、(翻訳者注:ゴシップとして?)性的暴力に結び付けて語られることにうんざりし続けることになるでしょう。私たちが、個の尊厳について、そして権力について語る方向にシフトしない限り。
性的暴力は、権力と、社会的特権を必要とします。加害者があなたのお気に入りの女優であろうと、活動家であろうと、ジェンダーの教授であろうと、それは変わりません。 そして、私たちが、ナラティヴ(語り)の誤った方向性を変えることに真摯にならなければ、文化が変わることもないでしょう。
私の望みは、より多くの人々、特に男性が名乗りでること、それによって、力と人間性、社会権力と危害について、いくつかの困難な対話への準備が整うことです。犯罪と制裁ではなく、現実に生じる被害、そしてそれを軽減することを問題とすべきです。
変化(Shift)が起こるでしょう。MeTooムーヴメントは、その可能性のための余白を作り出しています。しかし、その機会は、私たちが気持ちのわるいミミズ(warm)でいっぱいの缶詰めをこじ開け、そして、不愉快な現実、「*2犯罪者になるために生まれてきた人間はいない」という不愉快な現実に対峙してなお、快適に*3共存できるようになった、その先にあります。
模範的なサバイバーはいません。私たちは不完全な人間であり、私たちは皆、自分自身の行動に対して、それぞれ責任を負わなければなりません。
群衆(Peaple)は、昨今あったような最新のニュースを利用して、ムーヴメントの信頼性を貶めようとします。しかし、ムーヴメントは観覧用のスポーツではありません。それは、群衆が生み出したものです。私たちは、「それは、ムーヴメントの本質ではない」と主張します。
パワフルな表現を日本語に直すにあたって、いくつかの言い換えを行っています。逐語訳ではなく、また、若干緻密さに欠く訳になっているところがあると思います。大意はあってる…はずですが、より正確で・読みやす訳を提案していただける際は宜しくお願いします。明らかにおかしいところは突っ込みいただけると大変お助かりです、インターネットばんざーい。
模範的なサバイバーは居ない。自身の加害者性の責任は個々人が取らなくてはならない。それでも、個々人の回復のための道筋を模索し、性暴力を生み出すシステムと対峙しなくてはならない。性暴力を阻止するための草の根の活動を組織化し、多様なコミュニティで、それぞれに応じた支援を行うことが必要である。
ヤヤネヒは、あらゆる暴力に対して、性暴力を殊更に特別視する風潮には若干、批判的なのですが、「暴力」に置き換えれば、概ね、強く納得します。
そして、Twitterでの声明に続けられたように、MeTooムーヴメントの理念の実現において、性暴力の告発をあらゆる方法で消費することなく、「ミミズの缶詰めのような、不都合な現実」と、ニンゲンひとりひとりが冷静に、快適に対峙できるようになるという過程、そのための尽力は、必要不可欠であるように思います。*4*5
おしまいのおことば
ヤヤネヒ、専門家でも何でもないんですけどー。
何とか久しぶり記事書けたです……
っていうことでー、ぽっこんつー!
ヤヤネヒの個人的感想、ちょっとだけ書きました