最初に
オルタナの力強い擁護記事、読んでみたい気はしますよね(そんなことが可能なのか?という好奇心)
— さめぱ (@samepacola) 2019年2月11日
力強いかはともかくとして、怒ってるうちに書いたほうがいいと思ったのでかなり詰めが甘い自覚はあるんですが、まぁ好きアニメだったので書いておきます。脚本を読み返して本編を見て、もっと丁寧に書くべきかなぁとも思ったんですけど、まぁ怒ってる間に書いておこう。
結論から書くけど
1.「オタク男性目線で吸引力の強い『女子高生の日常』。
2. サブカルっ子が憧れるような『ちょっと変わった(メンヘラっぽい)女の子』
3. ボーイミーツガール
4. 菓子箱とDVDプレイヤー
全部無かったから勝手に失望したんじゃねーの*2 証拠に、プログレはちょっとだけ点が高いですよね。 可愛くてメンヘラっぽい女子がいてボーイミーツガールがあるから*3*4
余所の感想文をいくつか
最初にこれがバズってたから読んだんですけど(ねとらぼだからね)、
画面には安い青春ドラマから抜き出してきたような安直な心情吐露が飛び交い、既視感にまみれたバックボーンをもつ彼女らのぶつかりあう感情は陳腐な罵倒に終始
ああ、うん、刺さらなかったんですね。
同作「オルタナ」のハル子は地球のために河本カナのN・O(エヌオー)を目覚めさせ、メディカルメカニカの陰謀を阻止するためだけに動く。1話にて問われた地球に固執する理由については、最後まで示されない。
あったはずの行動の軸を引っこ抜かれた人間に魅力が生まれるはずもない。日常を壊すトリックスターとしての役割も、なぜかハル子の奇妙な行動をすぐに受け入れる女子高生たちによってコメディーとしてすら映らない。*5
神にも至らない己の読解力の無さを反省しろと思いました。*6
ハルハ・ラハルの行動原理についてはオルタナ・プログレできちんと掘り下げていたように読めましたが、これについては後述。 あと次記事でもう少し掘り下げたので興味ある方はどんぞ。
─ 本作を作るに当たって、女子高生のライフスタイルをすごく勉強されたとお聞きしました。
いかにも男性が描いたような、記号的な女性にしたくなかったんです。(中略) シナリオや絵コンテの段階で女性スタッフに女子高生のときのことを聞いたり、知り合いの子供に周りで流行っているものを教えてもらったりしていました。それに、アニメだからこそ人間をリアルに描きたいという思いは、監督になってからずっと持ち続けていることでもあるんです。(中略) 今回は等身大の女の子を描くことに初めて挑戦しています。
この監督発言は個人的にすごくわかる。めっちゃがんばってたと思うし、私には響いた。男性監督・脚本ってすごいびっくりした。
この目論見は破綻している。たとえば休み時間に主人公達がダベるシーンや、放課後に秘密基地でダラけるシーン。スキンシップを盛り込んだり、彼女らの間で流行ってる言い回しをさせたり、突然ペットボトルロケットを作らせて女子高生らしい派手な盛り付けにさせてみたり。こういった描写が「等身大の女子高生像」として通用したのは10年前のことだ。全部『けいおん!』で見た。
そうかー。女子高生のスキンシップは「けいおん」で見たから価値はないのかー。
いやいやいやいや、けいおんでいちゃいちゃしている、全然「リアルな女子高生の描写」じゃないからな?! ヤヤネヒはオタクがそこまで馬鹿だとは思ってないのでちょっと考え直してほしい。あれはユートピアだ。
本当に面白い作品は、「現実にこんなのいないだろ」って思うような描写・背景設定を使いつつもリアルを醸し出す。『フリクリ』のマミ美はまさにそうだった。
そ れ は お 前 の 趣 味 だ 。
「女子高生にはこうであって欲しい」という意識に合致しなかったから面白くなかった、という吐露に過ぎない。
主人公のカナ達が女の子じゃなくて、男の子だったら後者の顧客層は確実に取れてたと思う。「男子に女子会をさせたい」女の子たち。まぁ初代信者の男子はそれでも見るだろうし、「女子高生の群像劇」みたいな先入観から入った層も変な『女の子』幻想フィルターを掛けずに見れたんじゃないかという気がする。
批判をdisっても仕方ないので感想を書きます
ヤヤネヒはすごく好きな作品でした。 「女子高生」の描写が丁寧で、テーマ性とギミックが一致している。
『フリクリとは何か?』 Flick/Click、すなわち「全然キラキラしてない青春の中でそれでも強いちらつきを残し、脳裏を叩き続けるもの」、閉塞感の中に隠された自由と友愛への扉であると理解していて、初代では、それを象徴するのが永遠の青春を追いかける女・ハル子と海賊王アトムスクだったという理解です。彼らは「生とはそういうものだった」ということをバットやらベースギターやらで殴って思い出させてくれる。
神のアバター、ろくな学生時代は送っていませんでしたが、フリクリオルタナ、率直に言うと初代より評価が高いです。何故っていうと、主人公と友人たちが「柔らかくて可愛らしくてふわふわした美少女」でも、サブカルっ子が憧れるような「ちょっとヘンな子」でもなかったから。ヤヤネヒはmale gaze的な世界観もイケるし、全般的に女の子が大好きなのでまぁ先の二種も好きなんだけど、フリクリオルタナで描かれてるのって、自分が知ってた「女子のコミュニケーション」なんですよ。過剰に地獄でもなく、過剰にユートピアでもない。ハル子さんはそんな中で「大人の女性」として非常にいいロールをやっている。後述するけれど、N.O現象の追っかけをやっている限り彼女はキ◎ガイなのでそこの軸はまったくブレていない。狂人がまともに見えることもある。
前評判があまり良くなかったので、見始めてびっくりしました。まず、題材の意外性に。 次に、あとから監督も脚本も男性って知ってびっくりした。女の子同士の生々しい距離感を、こうして丁寧に描けるのはすごい。男子高校生と女子高校生、社会性的にはそんなに変わんないですからね。程々にドロドロして程々にドライ。ただし人による。サブカル的にはメンタルに問題のある女の子(※好き)がフォーカスされがちだけど。みんな好きだからね。マミ美とかね。私も好きです。
好きだったポイント
何げにこの作品、世情を抉っているわけですよ。格差社会ニッポンで、ある程度幅のある社会階層の子たちが、「友人」としてギリギリ同じ空間で過ごせるのが学生時代。 何となく場を共有していても、進学、就職、別離は唐突に訪れます。本当に唐突に。まぁこれは「女子」に限った話でもないと思うけれど。仲の良かったあの子が実は雲の上の住人だったーとかちょっと距離のあったグループのあの子が犯罪で捕まったーとか、まぁまぁ中流社会を生きていてもそれなりに起きる。起きる。起きる。
ペッツが、「MMのアイロンにぺったんこにされることはなく、退屈だが『リベラルな』火星に行ける」富裕層で、それでも自由で楽しそうな友人たちを羨んでいる、そういう女の子だ、ということは、一見賑やかな描写の中で静かに描写されていく。お別れのときはあんたたちなんて大嫌いだって突き放す以上のことができない。こんな心が痛い描写がけいおんにありましたか。無いよな?!!! ラブライブにもない。あっても困る。
カナが大好きだよって叫んだ瞬間、彼女は事象の地平線が歪んで地球が二つに分かれるくらい強烈なN.O現象を引き起こして、でも、ベペッツは帰ってこない。もう『火星』に行ってしまったから。 これはネオリベラリズム的とリベラルの共謀による階層の断絶に巻き込まれた少女たちの物語でもある。『火星ってどんなところなんだろうね』。 メインキャラクターを一人ずつ描写しているようで、実はカナとペッツの心の距離、という一連の物語が、通奏低音として痛々しいくらいに流れていて、楽しかった出来事も何もかも、思い出だけしか返ってこない。あなたはそこにいない。見返すと、膨大な感情が襲ってくる。言葉にできない……
ヤヤネヒには全然説得力のある話だったので「説得力がない」と言われても「お前の感想だな」としか返せない。
「記号的でない女性を描く」という監督の試みは成功している。しょーもない女子高生同士の友情に感情移入できるか否か。沸点高すぎてボーイミーツ未満だった異性との出会いをそれもよしと笑えるか。女子高生がペットボトルロケット作ったり服飾コンテストの手伝いやったりして悪いかー!!ふぁっく!!! 楽しいんだぞ!!!*7
先述しましたが
キャラクター全員男子にするという選択肢もあったと思う。それだと多分、ウテナ→フリクリの女性顧客は引っ張れた。「男子に女子会をさせたい」的需要に合致するし(どうも「ふつうっぽいし異様に可愛らしくも描かれない女子が主役を張る」という造形が受け入れられない層というのが男女共に多い印象がある、というかそれが普通なんだと思う)、初代からのファンは変な先入観を持たずに見ただろうし、現在ほど強い論調の悪評は立たなかったはず。
あんまりよくなかったポイント
殴る道具がギターだから演出的に音が軽い
コメンタリでも言われてるけど、初代のベースのドゥーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン、は、やっぱりつおい。まぁしゃあないね。
あと書き忘れたけど女の子からでもちゃんと額からち〇ち〇はやして欲しかったです。そこの遠慮いらない。
プログレ・オルタナを批判してる人のハル子さんの人物造形の捉え方がなんか雑だなって感じる件
「プログレ」で「それって恋じゃないですか」と言われていたのをどっかのレビューで馬鹿にされていたハルハ・ラハルさん。海賊王アトムスクというのは、一連の描写を見るに、人格「思春期にN.O現象を起こした少年少女が『大人』になる瞬間に現れ、憑依する圧倒的な何か(赤い鳥であり、『大人』のサインを持つもの)」であって、『男』ではどうやらない。人生を掛けて『彼』と(つまり、一連の作品で登場した少年少女たちと同じように)一つになった、大人になった瞬間の高揚感を追い続け、体現し続けるというのは、狂気以外の何物でもない。彼女はまったくブレていない。オルタナでハル子は、カナに「あんた引き悪いわねえ」と言う。期待した通りのものが一向に出てこないから。……で、やっと出てきたと思ったらアレ。
あれこれ期待してる人は「未知の存在である、えっちなお姉さん」要素に振り回され過ぎではないか。女子高生から見たら、シスヘテ的な異性愛の対象じゃなくって、(憧れの対象でもある)同性なんだから、そりゃ地続きですよ。描き方が矮小云々は、逆に「オタク的なキャラクター類型に押し込めようとしている」ようにしか思えないんですよね。解釈違いへの怒りを作品のダメさにされても。大人になっても夢に食らいつくみっともない狂人の気持ちなんて中坊にわかるわけがないんである。
無印の映像表現は確かにすごいんだよ(新しいから)
このあと、無印を見返したんだけど、哀しいお話ですが、無印の映像表現って今みると全然新しくないんですよね。「化で見た」「グレンラガンで見た」「忍殺のアニメパートで見た」ってなもんである。それが初代であって、そこはしゃーないんだけど。ヤヤネヒのアバターは無印をリアルタイムで見れるほど裕福なオタクではなかったので、古本屋で漫画版の一巻を読む、二巻を数年がかりで探してようやく買う、pillowsにハマってサントラを買う、当時始まっていたアニメの配信サービスに学割加入してようやく見た、みたいな流れでした。なんで、実は初代でいちばん好きなの漫画版なんですけどまぁ許せ。でも、あそこを通ってるとオルタナのEDで植草航先生を連れてきたのがめっちゃわかってると思う。
それはそれとして、神、初代にあんまり拘りがないんですよね。例えば、マミ美の一話の長回し、一話の「これは当時の映像表現としては凄かったんだ」って説明されても「あーもっとすごいのShaffleのOPで見た」みたいな。ロトスコープの長回しなんか最早シャフトの十八番である。新しいことをやったのはもちろんすごくて、でも、それにしても、
みんな言わないようにしてると思うんだけど、
思い出加点が入っているよな?
初代みたときの神の感想が「なんかウタモノが入るタイミングがダレてる…」だったの思い出した。((神はThe pillowsのゆるいふぁんなので…))
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最後にこれ。
フリクリオルタナについて考えていて、何か引っかかっていて、神が思い出したのがこの曲であった
さようなら、君ともう会うことはないでしょう。
それでも私は私の世界で生きる。*8
最後のN.O現象でカナが叫んでくれたとき、ほんとうに救われた気がした。
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まぁ、フリクリオルタナはこのあたりの今も痛いところに強く響いてくる作品でした。好きです。神は神すぴーかーでThe pillowsのべすとを一枚ずつ聴きながら泣いてくる。 あと、この記事を書きながらTwitterで感想をざーーーっと流してたらそんなに評判悪くなくて、なんかズレた期待を抱いた人が多すぎた・そのひとたちの声がデカすぎたのが悲劇だったんじゃないですかー、と神は思いました。
冒頭で引用したさめぱさんから記事を紹介いただいたので、踏まえて考察を含めた記事をちょっと続けました、コメントでの続くやりとりなどあります www.masshirona.red